2012年2月13日月曜日

第2回 車座カフェトーク報告

 すっかり遅くなってしまいました。 
第2回車座カフェトークの報告です。10人弱のこじんまりとした集まりでしたが、中身の濃い話ができました。屋嘉比さんのこれまでの経験からなど、いろいろなお話を聞いたのですが、聞くのに一生懸命でメモを取ることを忘れてしまいました。すみません。 

印象に残ったのは、最後に屋嘉比さんが言った言葉です。「ご自分を被災者だと認識してください」「〜しなければならない、ではなく、〜したい、を考えてください」ということ。仙台に住む私たちは、一方に沿岸被災地の圧倒的な津波被害を目にし、他方で福島県の高濃度の放射能汚染を目にし、私たちなんて被害を受けたうちに入らない、と思いがちでした。でも、実際には震災に大きく傷ついてきました。そして、日々、目の前のことに精一杯。何をしたいかなんて考える余裕がありませんでした。
そして、屋嘉比さんの来仙は、京都の皆さんとの新たなつながりもつくってくれました。「ほっこり通信 from Kyoto」の皆さんが、屋嘉比さんから報告を聞く「みやぎのお話会」を開きました。そして、ゆんた美樹子さんが京都へ行って、「ほっこり通信 from Kyoto」や「お母ちゃんネットワーク」の皆さんと交流。「ちいさなたび」やゆんたさんの子ども園にお野菜が届きました。「ほっこり通信 from Kyoto」のみやぎ版もつくってくれました。こんどの「おとのわ」にも「ほっこり通信 from Kyoto」の一人が、仙台まで来て下さいます!

「ほっこり通信 from Kyoto」(ブログよりプロフィールを抜粋しました)
http://profile.ameba.jp/hokkori-kyoto/

原発事故被災地へ向けたフリーペーパー「ほっこり通信 from Kyoto」を発行しています。
メンバーは京都のお母さんお父さんと避難中のママ。
私たちにできることを日々考えています。
避難している人へ。
避難しようとしている人へ。
被災地にとどまることを選択している人へ。


わび あいの里のニュースレター「花は土に咲く」より(12月発行)
(屋嘉比さんの原稿は10月に書かれたものです)
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京都より島の恵みと歴史にまもられて

屋嘉比 優子


震災後三ヶ月の六月、仙台へ向かいました。
会いたい人へ、里の全粒粉、島の黒糖やジーマミを携えて。街中はまるで当たり前の仙台でした。大きく静かな美しい都市でした。 ガイガーカウンターさえなければ。 

福島ほどではない、しかし、京都から行った私にはゾッとする量の放射線が降り注ぐ、そこを小さな子たちは駆け回る、公園に集まった反原発のデモ。誰もが恐と、疲弊と、闘っていました。


「原発あってよかったかも。京都に来れたし。」

言葉を探しました。

彼は七歳。放射線数値の高い仙台から親御さんの希望で自主避難、両親と離れて、わが家で一人、疎開生活をしています。

あまりにもむずかしく、残酷な、複雑な、「放射能からの避難」。ただ一度の地震から始まった新しい 進行形の災害。心も行動も定まらない大人を置いて、子どもたちは未来を生きていこうとするのだ、と教えられます。

彼は小学二年生。偶然ながら 一燈園に通っています。阿波根さんもかつて
学ばれた一燈園には、何人もの疎開児童がいます。

私はたまたま縁あって、彼と、 もうすぐ四ヶ月いっしょに暮らしています。毎日大好きなご両親と電話で話しています。そして、京都の小さな一軒家に狭しと暮らす大人子ども猫メダカ鈴虫、毎日仕事帰りを待たせてもらう歩いて一分のカフェ、そんな私たちとも「家族」です。

人は何によって支えられ、育まれるのでしょう。

「結婚」をしないのはなぜか、とときどき問われます。先日「玄関を開けておきたいから」と答えました。家庭や家族の形を作り、守ろうとする力はときに玄関を閉めなくてはいけない。そのことの良し悪し。私はいいかげんに、真剣に、誰かを迎え入れ、共に暮らし、送り出し、ゆるやかに今日目の前の人と共 に生きることに一生懸命な生活がしたいから、と。
実際はそんなにすっきりうまくは生きられません。けれど、「ただいまー」と「よその子」が当たり前に住む、子たちが「きょうだい」になる、この夏は原発事故からの避難という過酷さと関係なく豊かな日々を暮らしてしまっていたのです。

そして、さまざまな困難の前で、もっと多くの玄関が開けっ放しになって、支援
の必要な誰かと出会えた誰かが、決して簡単ではない今日一日を、まずは共にしあわせに暮らせればと願うのです。

一食から、一日から、一人の小さな命から、助け合えること、共に生き合えること。そこには花を咲かせる反戦の踏んばりが、他者へ手を伸ばそうとそれぞれの日常という土に根を張っています。

伊江島の野菜や海産物を、近隣の「汚染」されたかもしれない不安なものを食べざるを得ない日常に、届けられないか。京都でお金を集め、里にお願いをしました。「一食でもいいから安心して食べたい」。なんて、悲しく切ない言葉でしょう。今年は台風被害も深刻な中、弘子さんの采配と里のたくさんの人の愛情で土と海の恵みが仙台に届きました。

伊江島には農民が米軍に立ち向かった誇り高い歴史がある、と七歳の子を通じて出会える、小さな私たちを支えてくださるさまざまな人に話します。今の実りはその犠牲と闘いの歴史の上にあるのだと。

その子のお母さんはパレスチナで占領され、差別され、虐殺され続けている人たちの仕事を作り支えるために、パレスチナのオリーブオイルやオリーブ石鹸を販売されてきました。私はその志と取り組みに、感動と敬意を、そしていつか伊江島のもので同じような流通はできないだろうか、とぼんやり思ってきま した。

一人一人が自分自身と自分の仕事に誇りを持てること、それが何よりも生きることを支えるのだと思います。原発と戦争はその対極にあり、それによっては誰も生かされないこと、の真理は阿波根さんの教えそのものです。

被災地からも米軍からも離れた「関係なく暮らせてしまう」京都で、被災地の日々とつながり、沖縄やパレスチナの闘いと歴史とおいしい恵みに支えられながら、私は小さな麦さん(島から名前をいただいた一歳になる子)と私自身を育てています。

花は土に咲く。誰もが信じて明日を迎えられますように。


追記

そして、彼は関東に引っ越して行きました。新しくご家族(註:父親)との生活が始まりました。

送り出す前夜、不意にこみ上げました。
彼と私はお互いの意思に拠らずに共に暮らし始め、お互いの意思に拠らずに別れていく。ようやく近づいて、愛し合い、家族になった私たちは別れを言えずに「大好きだよ」「うん」とだけ言って別れました。原発事故って一体何だったの?こんな気持ちを、何と呼べるのだろう。

バイバイ、そして、終わらない闘いとまたつながりを続けるために仙台行きのバスを予約しました。 

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